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103歳の現役画家・金秉騏インタビュー
記事入力 2019-01-23 17:05 | 記事修正 2019-01-25 16:00:38
103歳の現役画家金秉騏(キム・ビョンギ)先生が杖をついて立って、キャンバスに筆を走らせていた。ソウル市平倉洞の自宅のリビングの、窓の向こうにみえるカナアートセンター(ギャラリー)を描いていた。キム先生と握手をするやいなや、記者の手に黄色い絵の具がついた。

一世紀を生きてきた彼は、「建物に宿る夕暮れを幾何学的に表現している」と言う。

作業台には庭から取った柿の実が干からびていた。その柿と柿の木をそれぞれ描いた画幅2つが壁にかかっている。高齢にもかかわらず、彼の筆はこまめにさまざまな方向に向かっていた。昨年、肺炎でキャンセルした個展を4月に再開することを決めたことで気分的に忙しくなった。老画伯は「大作を書こうと100号のキャンバスを5つ注文した。今週中に届く」と意欲を見せた。

健康状態を尋ねると、「大丈夫だ。何でも質問してください。私は(時間が)いくらも残っていないので、正直に答えたい」と言う。

- 美術評論家のユン・ボムモ氏が先生の画業をまとめた本『百年を描く』のなかで「100歳を超えたので、絵をわかるようだ」という文が目を引いた。

△ 昔から絵を知っていることと知らないことはよく似ている。肯定と否定が交差しながら、今日まで私を導いてきた。もともと私はかなり否定していた。しかし否定をもう一度否定すると肯定になる。そんな信念で生きている。

- 具体的にどのような信念なのだろうか。

△ 人生に苦楽がないだろうか。苦も楽の一部かもしれない。私たちが生きていること自体に感謝している。映画『フォレストガンプ』を見たが、「死も人生の一部だ」というセリフが気に入った。私はいつか死ぬだろう。しかし、怖がることはない。

- 4月の個展はどんな作品で構成されるのだろうか。

△ 興が冷めるので話さない。昨年に肺炎のための展示を取り消した。私は死ぬこともあり、人生は約束通りになるものでもない。しかし最善を尽くしたい。

- この頃はどんな絵を?

△ 柿と柿の木、山の東側の夕暮れ... これはもう一つの始まりだ。ところが始まりが作品であることもある。私が意図するとおりに、世界が作品を知ってくれるだろうか。 1954年に描いた『十字架のキリスト』は私が49年間、米国にいるときは作家不詳で捨てられていたが、カトリック大のチョン・スギョン教授が再び発掘して、重要な宝物として扱われた(彼は携帯電話を持ってきて、この絵をポータルサイトで検索して見せてくれた)。

- 一日にどのくらい描くのだろうか?

△ 愚問だ。マルセル・デュシャンは絵を描かずにチェスだけやっていた。芸術家は労働者のように、毎日時間を決めて描くものではない。私はなん日か描かずにいたり、夜遅くまで作業したりする。

- 日本の植民地時代にコ・ヒドン、キム・グァンホに続く第3の洋画家でがあり、映画制作者、美術品コレクターだったキム・チャンヨンが父親だ。父親の影響で画家がなったのだろうか?

△ そうだ。幼年時代、私は実母と平壌に住んでいたし、父は別の母親といっしょにソウルに住んでいた。私の否定意識はそのような環境だった。しかし、彼を肯定する気持ちで韓国戦争の直前に中風にかかった父を精一杯つくした。戦争が起きて父が生涯集めた高麗青磁などの骨董品がすべて燃えた。それでも恨まない。与えられたものも奪わたものも天の意志だ。

- 1944年に画家李仲燮(イ・ヂュンソプ)、ムン・ハクス、ファン・ヨムス、ユン・ヂュンシクなどと、平壌で「6人展」を開いた。日本強占期の芸術家の暮らしはどうだったのだろうか?

△ 制約だらけだった。展覧会の前に日本の検閲を入れていた。だからといって、それを避けて他の画を描かなかった。李仲燮とムン・ハクスは私と同じ東京留学生だった。日本留学時代にイ・サン(詩人)を私の下宿にとめたりもした。私の寝台をさしだしたのに、翌朝に「雨音のためによく眠れなかった」と言っていた。キム・ファンギは東京アヴァンギャルド洋画研究所で会った。全羅南道新安の島民らしく叙情性があった。

- 韓国戦争の従軍画家時代の記憶は?

△ 1947年に越南した私は平壌よりもソウル人に近い。 1951年の釜山避難時代に国防部から人が訪ねてきて、従軍画家団を作ってほしいと要請した。イ・マドンが団長で私副団長を務めた。銃を撃つシーンではなく、韓国戦争の実状を表現しようと努力した。主に戦線の光景を絵に描いた。従軍画家団は事務所が別にあったのではなく、釜山の龍頭山公園の近くの金剛喫茶店やミル茶園で集まった。従軍画家団はコ・フィドン、ノ・スヒョン、パク・ノス、ソ・セオク、クォン・ヨウウ、ト・サンボン、イ・マドン、ユン・ヂュンシク、ファン・ヨムス、パク・トゥクスン、ハン・ムク、キム・フンス、イ・ヂュン、クォン・オギョン、ムン・ハクチンなどの展示も行った。

- 1965年、ブラジルのサンパウロ・ビエンナーレに参加した後、帰国せずに米国に定着した理由は?

△ 私は絵を描くために米国に残った。韓国では作品を描くことがたいへんだった。果敢に描いてはけんかしたり、韓国美術協会理事長を務めた私は画壇から自由ではなかった。ソウル市厚岩洞の丘の上にあった私の家が燃えたうえに、貞陵に無許可で小屋を建てて暮らして経済的にも難しかった。たいへんな勇気と度胸でアメリカに残った。

- アメリカでの生活はどうだったか?

△ 手ぶらで行ったので生計が困難だった。スキッドモアカレッジ(ニューヨーク州サラトガスプリングスの私立芸術大学)音楽教師だった妻の妹が客員教授として招請してくれて、東西洋の美術比較を教えた。一対一の私教育もやったし、アーキテクチャ(構造)とメディカル(医学)ドローイングをしながら暮らした。

- 2014年に国立現代美術館の回顧展の後、翌年に帰国してイ・ホジェ カナアートセンター会長が用意してくれた住宅で過ごしているが。

△ 米国で49年住んでいたが、韓国人ではないときはなかった。金がなくてこれなかった。私が韓国抽象美術理論の基礎を作ったと確信している。キム・ファンギの点描画で木魚の音が聞こえてくるという文を私が書いた。離れるときは韓国の山には木がほとんどなかったが、いまはうっそうとした森をなしていて驚いた。韓国人の底力を称賛したい。

- 李仲燮、ユ・ヨングク、ピョン・ウォルリョンと同い年だ。最も会いたい友人は?

△ みんな同じように会いたい。特に李仲燮は平壌のチョンノ普通学校の相棒だった。 1956年にソウル赤十字病院で無縁故者としてこの世を去った李仲燮の遺体を受け取って葬儀を行った。火葬にして山と忘憂里に振りかけて、残りの遺骨は日本の彼の妻に送った。李仲燮がキム・ファンギの家に行くときに歌ってくれた歌「松よ松よ」を日本語に翻訳して李仲燮の息子と娘に教えてやった。

- 100年以上生きてきて、最も嬉しかった瞬間は?

△ 長く悩みつつ描いたが、作品になると鼻先がじーんとなって涙が出る。それが作品になったというひとつの信号だ。

- 最も満足した作品は?

△ 無数にある。米国で貧しく妻と一緒に暮らした時が良かった。自動車に乗ってサラトガの田舎を通るとき風になびくのが感動的だったので、細筆で『風が起きる』を描いた。その絵は米国LAの息子の家にあるのに、今回の展示会に持ってこいと言った。

- 100歳をこえて良い点は?

△ ぐうぜん103歳まで生きた。世界記録を見ると、100歳を超えた現役の画家は珍しい。ピカソは92歳まで描いた。作品を長く描くことができていい。作品を作ることが、私が生きることだ。作品を作らないと私は死ぬことになる。気力がなくなる時は作品の話をすると力が湧く。作品は、私の人生の全てだ。

- 南北が平和ムードだ。故郷である平壌の地を再び踏めそうだろうか?

△ 明らかに私の頭の中の平壌ではないだろう。南北統一は賛成だが、北韓式統一には反対する(彼が最も好きな食べ物はまだ平壌冷麺だ)。

- 歴史の中でどのような画家として記録されることが願いか?

△ 21世紀は現代美術の様式だけが残りって精神がなくなった。私は本来は抽象画かだったが、現状をもとのとおりに回復して、精神を取り戻したい。アンディ・ウォーホルもマリリン・モンローやコカ・コーラのボトルと同じ形状性でポップアートを構築した。

- ことによると、彼は韓国の近現代美術史を証言しようと長く生きたのではないだろうか。彼の脳に活字が烙印されたかのように、記憶がはっきりしている。インタビューが終わった後、門に向かう記者に「力強く生きなさい。ファイティング」と叫んだ。今まで私が出会った人の中で最年長のオルシン(大人の方)からそのような応援を聞いて気持ちがちょっと妙だった。

■ 金秉騏(キム・ビョンギ)画伯は、
△1916年平壌生まれ、△1933年、日本の川端美術学校修学、△1939年、日本文化学院卒業、△1950年、淑明女子大美術課長、△1954~1958年、ソウル大学美術学部教授、△1964年、韓国美術協会理事長、△1966年米国スキッドモア大学招聘教授、△1967~1977年に米国エンパイア・ステート・カレッジ教授、△2017年大韓民国芸術院会員

[チョン・ヂヒョン記者]



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每日經濟新聞日本語版は専門翻訳会社O2CNIで代行しています。原文と翻訳の間に多少の違いがあり得ます。

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